詳しいプロフィール:その1

今回は、わたくしのもう少し詳しいプロフィール:その1をご紹介いたします!

その2とわけて長文にて紹介させていただきます…(;’∀’)

なぜ、こんなにしつこくプロフィールをご紹介させていただくのかというと、

いったいどんな人物がこの研究所をやっているのか、

ご理解いただく手助けになれば、

身体を触らせていただくにあたって

少しでも安心しておいでいただけるのでは、と思った次第です。

ご了承いただき興味のある方だけお読みください(*‘ω‘ *)

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1970年 長野県の片田舎で5人兄弟の4番目として産まれました。

歩けるようになってからはふと目を離すとどこかに行ってしまう落ち着きのない、活発な男児だったようです。

小学生になってからはその活発な性格があだ?になり、いじめられるような経験もしたので小学校高学年から高校生までは、学校内では目立たないよう過ごしていました。

小学校も中学校も自宅からは4km近くあり、昨今のような決まった通学路もなく送迎も皆無でしたから、野山を駆け回り、大きなケガや病気もなく元気でした。

水泳と絵を描くのが得意で、水泳は泳ぐというより、水中に居ることが大好きで、中学校は水泳部でしたが雨の日も雷の日もプールの中で過ごしていました。

高校時代は絵を描いたり、ギターを弾いたりすることが趣味でした。

~ちなみに研究所のロゴやサロン内に飾られている絵はわたくしが描いたものです(*’▽’)~

日本の高度成長期の終盤、バブル経済全盛期に高校卒業を控えて進路を決めるにあたり、イラストレーターに憧れてはいましたが、現実的には考えられず、特にやりたいこともなく、勉強も好きではなかったですし、さらに当時200人ほどいた同学年の生徒のうち進学を選択したのはわずか数名ということもあって、就職を選択しました。

買い手市場で山のように積まれた求職案内の冊子の束に途方に暮れ、休日と基本給の多い会社からいくつか選択し、たまたま第一志望の企業への就職が決まりました。

中学高校時代は週刊少年ジャンプが愛読書で、Dr.スランプアラレちゃんやドラゴンボール、スラムダンクなどはタイムリーに読んでいました。

小学生時代に手塚治虫のブッダという漫画に出会い、主人公がインドやネパールを舞台に活躍しており、ネパールに興味を持っていたのですが、高校時代にネパールのトレッキング旅行の広告を目にして、旅行費用を親に借金し、高校の卒業式を欠席して初めての海外旅行に2週間出かけました。

山の中の村を何ヶ所かキャンプするツアーで、現地の貧しさなどを目の当たりにした衝撃はその後の価値観に影響を与えました。

電気部品の開発製造企業の経理として働き始めましたが、1年もすると数千万、億という現実的ではない決算の数字にもうろうとしてしまい、午後になると睡魔と頭痛に襲われ、5時になると元気になるという完全なイヤイヤ病になってしまい、両親の反対を押し切って2年で退職しました。

その直後にバブルが崩壊し、その会社では150人以上が自主退職をせざるを得ない状況になったので、ある意味ラッキーではありました。

退職後は、軽井沢のペンションに泊まり込みのバイトをしたり、高校時代に通い始めたスポーツクラブのインストラクターのバイトなど、しばらくフリーターをして過ごしました。

高校時代にスポーツクラブで出会った違う学校の友人と意気投合し、軽井沢でレストランとバーを共同経営しようと夢を語り合ったりしましたが、ペンションのバイトをする中で、調理や接客の現実を目の当たりにしてその夢はしぼんでいきました。

長野県はどこに行くにも峠を越えなければいけない土地柄で、あの山を越えればきっとなにかすごいことが待っている!と夢見がちでしたから、調理人やバーテンダーの仕事をするにも、都会に行って勉強しよう!と思っていました。

ところがその夢が現実的でないとわかった時、もうひとつのスポーツクラブでのバイトが自分にとってやりがいのあるモノになっていることに気付きました。

そんなある日、ふと思ったのです。

都会に行って嫌なことがあれば、あぁ、あの時地元に残っていればよかった、と思うだろし、地元に残って嫌なことがあれば、あぁ、あの時都会に出ていればよかった、と思うだろう、と。

ならば、やりがいを感じている今のバイト先に就職して、出来るところまでやってみよう! そう思って就職したスポーツクラブの仕事で、初めて自分の選択で、やる気をもって何かに打ち込む、ということを経験しました。

スポーツクラブのインストラクターの仕事の中で、メインはスイミングのコーチでしたが、中でも選手育成コースというプログラムのヘッドコーチを就職一年後に任され、近隣にもう一つある同じ系列のスポーツクラブの先輩ヘッドコーチの指導を受けながら選手の指導に当たっていました。

お盆や正月、ゴールデンウイークも合宿があってなかなかハードでしたが、選手たちが成長していく姿をみるのは何よりも楽しかったと感じます。

合宿は、県内4カ所ほどから他のチームの選手や監督が集まり行われました。

初めて参加した合宿の時のことです。わたくしは当時かなりの若手だったため、夜のミーティングの後、監督陣が集まる宴会ではコアな話しには交われず、お酒の準備をしたりという雑用係でしたし、合宿の前後には県内の主要選手を何十人も集めてコメントする機会もありましたが、自分の決意表明的な事しか話せず、随分と反省しました。

そして

お酒の準備をするだけではなく、いつかコーチ陣の会話の中に入ってやる!

選手たちが自分のためにやる気が出るようなコメントを出来るようになってやる!

と、二つの目標が自然と湧き上がってきました。

人生で初めて、自発的に生まれてきたこの目標に、俄然やる気が出ました。
すると…、あれよあれよと…周りが変わっていくようになり…
実際は自分が変わったのかと思いますが、当時の自分には、周りの環境が変化していくように感じていました。

その数回後の合宿ではコーチ陣の輪の中に少しは入ることが出来るようになり、他のチームの主要な選手にも、わたくしの年齢が近いということもあって、自分の監督には言えないような相談を持ち掛けられるといった出来事にも遭遇するようになりました。

そんな状況ではありましたが、自分のチームの主要選手は伸び悩んでいました…。

ところがある日の練習で、一休みしているその選手に、ふと泳ぎを見て感じたことを告げてみました。するとその選手が、「え!? ドキっ!」っといったのです。

その直後から、その選手の練習への取り組み方が変わり、あれよあれよとジュニアオリンピックや全日本中学選手権の選考タイムをクリアするといった出来事が起こりました。

その結果、当時有名だった鈴木すずさんや 岩崎恭子さんなどの選手と同じ大会にも参加できました。中学、高校時代と勉強嫌いで、成績も下から数えたほうが早かったくらいで人生に何の目標も持てずにいましたが、そんな経験を二年間ですることによって、

こんな自分でも、頑張れば変われるんだ!

人って、やればできるんだ!

と思えたのでした。


~ジュニアオリンピックの会場前にて~

そんなとき、新たな目標が自分の中で湧き上がってきました。当時高校時代の友人が仕事をしていてギックリ腰になってしまったとか、身体を傷めてしまって、リハビリとしてプールの中で何かできないか、と相談されることもちらほらありました。

専門的な知識は無いモノですから、自分なりに色々と調べたりしてなんとか教えたりしていましたが、もっと専門的な知識や資格を得たいと思い始めていました。同時に結婚を考えるような彼女が出来たりして…、将来のために、なにかしっかりとした資格をとるのもイイのではないか、と考えるようになりました。

高校を卒業して、もう5年も経っていましたが、親に相談すると、5人兄弟がいたことで経済的に厳しいこともあって進学を勧められなかったが、実は心残りではあったことを告白してくれ、応援するといってくれました。

ここでリハビリテーションの専門家になる、という目標をかかげますが、当初は 作業療法士 という資格を取得しようと考えていました。楽器や絵、手作業に関連するような手法を用いてリハビリテーションを行う専門家だと知って自分に向いているかな、と興味を持ったのですが、母親の知人に理学療法士の方がいて、相談するとメジャーなのは理学療法士で、しかも厳密にはそれほど内容が変わる訳ではなく、当時の状況だとそちらがおすすめとのことで理学療法士養成校へ受験することを決めました。

中学高校とろくに勉強をしてこなかったので、受験勉強のために9月にはスポーツクラブを退職にすることにしました。中途半端な突然の退職に、育成コースの20名近い選手たちは戸惑い、ブーイングでした。今でも申し訳ないと思っていますが、彼らの存在がその後本当に大きな力となりました。

きつい練習の時には、「自分に負けるな!」と叱咤激励してきたのですが、受験勉強中のわたしに彼らのうち何人かは手紙を送ってきてくれて「自分に負けるな!」と叱咤激励がえしをしてくれたのでした。

受験勉強中も、在学中も、彼らに情けない姿は見せられないと奮闘し、養成校卒業時には首席で、卒業生に一人だけ贈られる厚生労働大臣からの優秀賞をいただくことが出来ました。

母親の知人の理学療法士からのご縁で、卒業後は地元の病院への就職が決まっていましたが、リハビリテーション部門は開設直後で、新卒にいきなり任せるのは大変だろうと、養成校に非常勤講師として来ていた埼玉の理学療法士の元で修行させていただくことになりました。

ところがいざ就職してみると、意外と古い体制が残されている職場で、このままでは修行にならないと理事に進言すると、わたしが学生時代に教えてもらい憧れていた師匠、千葉の理学療法士を指導者にして施設の改革を一任すると命ぜられ、なんと新任の7月から全システムの改善をすることになりました。

高校までの自分では想像もできない大役でしたが、人は頑張れば変われる!ということを身をもって体験していましたのでなんとか頑張りました。

システムを大幅に変え、施設内のレイアウトも変更し、9月には新装オープンの予定でしたがさすがに大変で、指導者の理学療法士に9月オープンを10月に延期したいと泣きついたら、「そんなこと言ってたらいつまでたっても変えられないぞ!」とカツを入れられ、泣く泣く9月オープンに間に合わせました。

とはいっても、経験年数は数カ月です…

来ていただいた患者さんになんとか満足して帰ってもらいたい、その一心で、なかなか結果が出せない患者さんには 夜遅くまで残ってもらったり、一度帰ってもらって 業務終了後にまた来てもらったり、部活動をしている高校生には、日曜日に運動公園なんかに呼び出して実際の動作を確認しながら テーピングを試したり、動作指導したりするなんてこともありました。

そんななか、9月の終わりにある理学療法士が再就職先を探して見学に来ました。わたしの奮闘する姿を見て、こいつと一緒にやってみたい、と思ってくれたようです。10月オープンに延期していたら、そうは思ってくれなかったでしょう。

当時わたくしは、船橋整形外科というリハビリテーションでは有名な病院の理学療法士に師事を仰いでおりましたが、見学に来た彼は、昭和大学 藤が丘病院のリハビリテーション部門というまた別の有名な理学療法士数名に師事しており、この2カ所の概念が融合したことも大きかったと思います。

わたしと見学に来た彼とは、目的は一緒でも方法が違ったり、性格もまったく違ったのである意味ウマが合い、お互いに足りない部分を補い合いながら、自分自身を、そしてその施設を成長させていくことが出来ました。

その彼は2010年から埼玉の上尾で開業しています。→こちら

3年修行するはずが気づけば5年が過ぎていました。就職が決まっていた施設からも催促があり、ちょうどその頃、わたしの姉と母が相次いで急逝し、そんなこともあって地元の長野に帰ることになりました。

それまで、経済的な困難はあったものの、家族の愛情には恵まれ幸せを感じながら過ごしていました。ところが身内二人の急な死別にはさすがに精神がやられて、生きることや死生観にだいぶ暗い影を落としましたが、今では人を診る上で、必要な経験だったとも感じています。

地元に帰ってからは、埼玉時代に培った経験を生かして、新しいリハビリテーション部門を立ち上げるために尽力しました。

毎年新人が複数就職し、常に実習生が在籍し、患者さまとして老若男女が集まる賑わいのあるリハビリテーション室でしたが、今思えば、勢いだけで突き進んでいました。

地元に帰るのと同時期に結婚し、子どもも生まれて、古い実家をリフォームして引っ越ししたりと公私ともにイベントも多く、経済的な不安から本業とは無関係な副業に手を伸ばしてみたりもしていました…。

5年ほど後輩育成も含めて頑張ってきましたが、それまでの経験だけで進んできましたので、自分自身のアップデートがおろそかになり、知識や技術に足りない部分を感じ、日々の中で思い悩むことが増えていきました。

副業も予想通りにうまくいくことはなく、お金に振り回されて、よそ見をしている自分が馬鹿らしく思えるようになってきました。

組織の中でもやることもたくさんあったのですが、足元を見つめ直して、自分自身のアップデートを優先し、勉強会や研修会へ積極的に参加するようにしました。

そこでは 多くの新しい知識や技術を学び、同時に後輩へ共有していきました。

そんな中で、今までにない患者さまの変化を感じ、同時に 生命の神秘や人体の不思議に改めて気づかされ、理学療法士という仕事、ヒトの身体に携わる仕事の素晴らしさを実感しました。

当時、軽井沢のクリニックで人手不足とのことから月に何回か非常勤でお手伝いに行かせていただいていました。埼玉で働いていた時と同じ外来専門のクリニックであり、病院勤務に比べると雑多な業務が少なく、臨床に集中できる利点があります。

とても新しい施設で開放的でしたが、マンパワーは不足気味で、リハビリテーション部門の科長も管理職に就いたばかりで不安を感じていたようで、わたしに一緒に働きませんか?と声をかけてくださいました。

その時 勤務していた病院は学生の時から勤務を約束されていた病院で、リハビリテーション部門の立ち上げを任されていました。後輩の育成や、今後の道すじはある程度作ってきてはいましたが、それ以外にも手術後のリハビリテーションの系統だった仕組みづくりや病院内でのシステム改善など、やるべきことは残されていました。

しかし、臨床に集中できるクリニックで、改めてヒトの身体に向き合いたいと考え、8年間勤務した病院を退職することにしました。

だいぶ長くなりましたので、次回に続きます…(;’∀’)

ここまでお読みいただき有り難う御座いました!

佐久市の病院を退職後ご挨拶に伺った恩師、脇元先生と